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塾長メッセージ

占部塾長

 占部賢志

 福岡県立太宰府高等学校教諭。歴史研究家。
 九州大学大学院人間環境学府博士課程修了。
 福岡県立学校教育課程研究協議会委員、
 福岡県立学校生徒指導主事研究協議会事務局長、
 福岡県いじめ問題対策協議会委員など歴任。


 

この国の教育の行方を考えるたびに、
かつて評論家の小林秀雄氏が語った言葉が、懐かしい肉声とともに甦ることがあります。
こういう内容でした。


   「教育をめぐって生起する時局問題など、いずれ片付くところに片付くだろう。
    しかし、根本問題が片付くわけではない。
    要は一人の本物の教師が出現するほかにないのだ。
    自分の教えを弟子が継いでくれるということほど不思議なことはない。
    教師の魂が教え子の魂にうつるのだから…。そこに教育の原理がある」


私たちは様々な対人関係のなかで生きています。
親子に始まり、友人、同僚、先輩後輩、上司部下など挙げたらきりはありませんが、
利害を抜きにして師弟関係を結ぶというのは、
考えてみれば人間社会独特の不可思議な間柄です。
解決すべき教育問題がいかに山積していようと、
この歴史的由来を持つ教育原理を忘れてはならないというのが、小林氏の忠告でした。


「教師の魂が教え子の魂にうつる」とは、奥深い言葉です。
どのように教育環境が整備されようと、
こうした一対一の真剣勝負の営みを抜きにして教育は成り立ちません。
赤の他人でありながら、
縁あって結んだ師弟の関係が人生を変えてしまうほどの感化をもたらす。
それが古来から教育の本質だったのだと思うと、
この仕事に携わる者の一人として畏怖すら覚えます。


世の中は常に進化してやみません。
私達の生活は時々刻々便利になって来ています。今や学校もパソコンの時代となり、
鉄筆でガリを切っていた駆出しの頃からすれば、その様変わりには隔世の感があります。
しかし一方で、こうした便宜主義の流れに身をまかせていますと、
日々研鑽に努めようとする意欲と気力が衰えやすいのも事実です。


今般の改正教育基本法において、
「教員は…絶えず研究と修養に励み」との一項が新設されたのも、
そうした現状を憂慮しての歯止めの意味もあったものと思われます。
今後はますます研修制度の充実が図られていくことでしょう。
大いに結構なことですが、何より肝心なことは、
自分の胸に学に志す火が燃えているか否かの一点にあります。
問うべき対象は私たちの内心なのであり、
教師にとっての究極の研修とはみずからが創り出さなければならないのです。
「一人からの教育再興」を掲げる当師範塾の理念もそこにあります。


この世を生きるには、「肖る人」がいるのだと思います。
私たちが物を学びたくなるのは、
あの人のように生きてみたいと思う欲求がきざす時でしょう。
人はやはり、肖りたき人を得て生きることの意味を知りたくなって来るものなのです。
教師みずからが、
そうした内なる欲求を衰弱させたままルーティン・ワークを続けているとすれば、
もはや生きた師弟関係の営みとは言い難い。教育の形骸にすぎません。


その昔、吉田松陰は、「郷里無学の一善人にては覚束なし」と喝破しました。
世間には人柄がよく周囲からも慕われる善き人がいます。
そうした善人は今さら学問など七面倒くさいことはしないでいいように思いがちです。
ところが、松陰は、それは間違いであると言うのです。いわく、


   「学問せず思弁せざれは、何か天下の大乱、
    人倫の至変、忠孝の大関係あることに至りて、 
    却って大いに謬戻を生ずることあり。
    ・・・・郷里無学の一善人にては覚束なし」(講孟余話)


すなわち、いかに立派な人格者であろうと、
日常座臥、先賢に学び道を求める修養を怠る人は、
国の一大事、道徳荒廃の危機に直面した時、
的確な判断を下すことが出来ず、重大な過ちを犯しやすい。
だからこそ、一善人の世界だけにあぐらをかいてはならないとの指摘にほかなりません。

「郷里無学の一善人にては覚束なし」――
今期師範塾に学ばれる皆さんとともに銘記しておきたい至言です。